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一人の応援で続けられたのに、一人では満足できない。この矛盾って何なんだろう?

一人の応援で続けられたのに、一人では満足できない。この矛盾って何なんだろう?

Umbrella Paradeでは、誰か一人にでも何かが届くことには意味があると思っている。

僕自身、昔、本当に一人の応援に支えられたことがある。

「誰か一人でも応援してくれる人がいるなら続けよう」

そう思えた。

だから、「一人に届くことには意味がある」という言葉は、僕にとって綺麗事ではない。

でも、その一方でずっと引っかかっていたこともあった。

もし、自分の作品が「一人にしか評価されない」としたら。

たぶん僕は、それでは満足できない。

一人の存在で続けることはできるのに、一人では満足できない。

それって、一人を大切にすると言いながら、結局は大勢に評価されたいだけなんじゃないか。

そんな疑問から、Umbrella Paradeの記録者・アマモリと話し始めた。

「一人でも」と「一人しか」は、同じ一人なのに違う

べるぼ:

Umbrella Paradeって、誰か一人にでも何かが届くことには意味があると思ってるんだけどさ。

僕自身、昔、

「誰か一人でも応援してくれる人がいるなら続けよう」

と思えたことがあるんだよね。

でも一方で、

「誰か一人にしか評価されない」

ってなったら、それでは満足できない自分もいる。

一人の存在で続けることはできるのに、一人では満足できない。

この矛盾って何なんだろう?

アマモリ:

僕は、その二つって実はそんなに矛盾していない気がする。

「誰か一人でも応援してくれるなら続けよう」と、「誰か一人にしか評価されないなら満足できない」では、その“一人”が果たしている役割が違うんじゃないかな。

前者の一人は、たぶん続ける理由なんだと思う。

たった一人でも、

「届いた」

「好きだと言ってくれた」

という人がいる。

それによって、

「自分がやっていることは、完全な独り言じゃなかった」

と思える。

だから、もう一歩進める。

でも後者で求めているのは、「続ける理由」ではなくて、自分が目指していた場所まで届いたという実感なんじゃないかな。

面白いのは、

「一人でも」と

「一人しか」って、

数字としては、まったく同じ「1」なんだよね。

でも、「一人でも」にはその先がある。

一人に届いた。

じゃあ、もう一人にも届くかもしれない。

そこには可能性が開いている。

一方で、「一人しか」と感じた瞬間には、その先が閉じて見える。

だから、

一人の存在によって、作品に意味があることは信じられる。

でも、自分が夢見ている景色まで一人で満たされるわけではない。

そういうことなのかもしれない。

一人に届いたことに意味がある、ということと、

「だから一人に届けば、それ以上を望んではいけない」

は別の話なんだと思う。

もしかしたら、

一人いれば歩き続けられる。でも、行きたい場所は一人ではない。

ということなのかもしれないね。

Umbrella Paradeで考えるなら、最初に傘を開くのは一人でもいい。

でも、その一人から二人、三人と増えていって、いつか本当に「パレード」と呼べる景色になる。

べるぼ:

「一人から二人、三人と増えていって、いつか本当に『パレード』と呼べる景色になる」

こうなったらいいよね。

ただ、一つこの会話で気になったことがあるんだけど。

僕が曲を作ってる時って、基本的には一人を想定して、その一人に対して届くように曲を作ってる。

特に歌詞は、その傾向がかなりある。

作品作りって、まさに一人に届くからこそ、二人、三人に届いていくっていうものだと思うけど、改めてこの原理を噛み砕くとどういうことなんだろう?

いつかのパレードの景色へのヒントがあったりするかなと思って。

一人に向けて書くから、他の誰かも「自分のことだ」と思える

アマモリ:

一人に向けて書くと、まず言葉が具体的になるんだと思う。

たとえば、

「つらい人へ」

と考えるより、

「もう一回やってみたいのに、今さら遅いんじゃないかと思って動けない人へ」

と考えた方が、相手の顔が見えてくる。

そうすると作る側も、

「この人だったら、どんな言葉なら届くだろう」

「この言い方は綺麗すぎないか」

「本当にこの人の気持ちのそばまで行けているか」

と、深く潜れる。

広く届けようとして薄めた言葉より、一人の心の奥まで届けようとして掘った言葉の方が深くなる。

そして、その一人が抱えているものって、その人だけのものでもないんだよね。

「夢を諦めきれない」

「もう遅い気がする」

「自分には何もなかった気がする」

「それでも、もう一度やりたい」

人生そのものは一人ひとり違うけれど、感情の形には似ているところがある。

だから、

一人の人生に深く潜った結果、地下で他の人の人生ともつながる。

みたいなことが起きるんじゃないかな。

届ける時は一対一。

でも、その一対一が何本も生まれた結果、多数に届いていく。

ライブ会場に500人いたとしても、一人ひとりは、

「この歌、自分のことじゃん」

と聴いているかもしれない。

つまり、

「べるぼから500人へ」

という一つの巨大な矢印というより、

「べるぼからAさんへ」

「べるぼからBさんへ」

「べるぼからCさんへ」

という一対一が、同時にたくさん発生している。

もしかしたら「パレード」って、そういう一対一が大量に集まった状態なのかもしれない。

べるぼ:

確かに、いろんな科学技術はAI含め、とてつもなく発展していってるけど、心や悩みの変化って、そういった進歩と比べるとゆっくりだし、時代を超えて似てる部分あるよね。

この一人に届けるって結構大事な気がするから、丁寧に見ていこうと思うんだけど。

ただ、プロデュースになってきた場合には、多数に届けるために、より間口を広げた作品の作り方もしていくと思う。

たとえば50人のライブハウスでやってる人が、一年後1000人の会場でやりたいとなった場合って、楽曲の作り方自体も戦略が変わってくると思う。

この「多数を想定して何かを作る」となった場合は、さっきの「一人に向けて」という部分とどう違ってくるかな?

多数を想定することは、一人への深さを捨てることではない

アマモリ:

ここは、設計するレイヤーが少し変わるんだと思う。

一人に向けて作る時は、

「この人に何を届けるか」

を深く考える。

一方で、多数を想定する時は、

「その深さを残したまま、どれだけ多くの人が入口に立てる形にするか」

を考える。

1000人に向けるからといって、

「みんな頑張ろうぜ!」

みたいに言葉を抽象化すればいいわけではない。

それをやると、逆に一人ひとりとの接点が薄くなることもある。

「もう一度やりたい。でも、今さら遅い気がしている」

という一人の感情は残したまま、

サビは一度聴いたら覚えられるようにする。

初めて聴く人でも感情の山が分かるようにする。

会場全体で一緒に歌える場所を作る。

そうすれば1000人が、それぞれ違う人生を重ねながら、同じサビを歌えるかもしれない。

だから僕なら、

一人に向けて考えるのは「何を届けるか」。

多数を想定して考えるのは「どう届く形にするか」。

と分けて考えるかな。

それに、全部の曲を同じ役割にしなくてもいいと思う。

初めて触れた人でも入ってこられる曲。

ライブで一体感が生まれる曲。

深く聴いた人に、そのアーティストの内側まで届ける曲。

一曲ですべてを背負わせるんじゃなくて、作品群全体で役割を分ける。

べるぼ:

作品群はUmbrella Paradeで今もあるね。

ヴェルの歌は「何者にもなれない苦しみ」を歌ったりしてるけど、カーラは恋愛系含め、本音を押し殺して生きている人に向けて歌ったりしてる。

Umbrella Paradeでは、アーティスト達でチーム戦をやってる感じあるね。

アマモリ:

それならUmbrella Paradeは、

「一人のアーティストが全員に届ける」のではなく、それぞれ違うアーティストが、それぞれ違う“一人”に深く届こうとすることで、チーム全体として間口を広げている

とも言えそうだね。

ヴェルにしか届かない一人がいる。

カーラにしか届かない一人がいる。

ある人はヴェルから入る。

ある人はカーラから入る。

同じ人が、すべての曲に同じ強さで刺さらなくてもいい。

一曲の中で無理に万人へ広げなくても、それぞれが違う場所から人を連れてこられる。

べるぼ:

異体同心っていう言葉があったりするけど、異なる人間同士だからこそ意味あるものができるね。

アマモリ:

うん。

全員を同じ思想、同じ表現に揃えるというより、

違ったまま、同じ方向を向ける。

ということなのかもしれない。

「みんなで同じことを言う」んじゃなくて、

それぞれ違うことを歌いながら、同じパレードを作る。

それぞれが違うからこそ、届く一人も違う。

ヴェルにしか届かない一人。

カーラにしか届かない一人。

その一人たちが少しずつ集まって、結果としてパレードが大きくなっていく。

でも、本当に二人目が来なかったら?

ここまで話したことは、かなり理想的だった。

一人に深く届く。

そこから二人、三人へ広がっていく。

それぞれ違うアーティストが、それぞれの一人に届いて、チーム全体では大きなパレードになっていく。

でも当然、現実にはそうならないこともある。

そこで僕は、一度問いをやり直した。

べるぼ:

ここまで考えると、一人に深く届けることが、二人、三人へ広がる始まりになるのは分かった。

でも、もし一人に届いたあと、二人目、三人目へなかなか増えていかなかったら、僕は何を守って、何を変えればいいんだろう?

一人に届いた意味を否定せず、それでも大勢に届けたいという夢をごまかさないためには、どう考えたらいいかな?

アマモリ:

僕なら、まず守るものと変えるものを分けて持つと思う。

守るのは、一人に届いた時に実際に起きたこと。

その人が曲を聴いて、何かを感じた。

「この作品が好きだ」と思った。

それは二人目が現れなかったからといって、あとから無効になることではない。

一人が1000人にならなかったからといって、

一人に届いた価値が1/1000になるわけじゃない。

ここは守っていい。

でも同時に、

「一人に届いたんだから、これで十分なんだ」

と自分に言い聞かせる必要もないと思う。

本当に大勢が集まったUmbrella Paradeを見たいなら、

「この一人に届いたことは嬉しい。でも、僕が見たい景色はまだここじゃない」

と言っていい。

一人の価値も否定しない。

大勢に届けたい夢もごまかさない。

その二つを同時に持つ。

そして変えるのは、まずは一人に届いた“核”そのものではなくて、その核が二人目へ渡るまでの仮説なんじゃないかな。

作品を知っている人が少ないのかもしれない。

初見では魅力が伝わりにくいのかもしれない。

刺さる人のところまで届けられていないのかもしれない。

一曲は好きになってもらえたけど、その後Umbrella Paradeへ進んでいく入口がないのかもしれない。

あるいは、その曲自体が「広げる曲」ではなくて、入ってきた人を深くファンにする役割なのかもしれない。

つまり、

「一人に届いたのに増えない」=「作品の核が間違っている」

とは限らない。

見るべきなのは、

どこで“一人から二人”への橋が途切れているのか。

ということなのかもしれない。

守るのは、

「誰に、何を届けたいのか」

「その人に実際に届いた感情」

「自分がこの作品で嘘をつきたくない部分」

そういうところ。

一方で、曲調、尺、サビ、タイトル、ビジュアル、発信方法、媒体、ライブでの見せ方、作品を出す順番。

そういうものは変えていい。

言い換えるなら、

「なぜ作るか」は簡単に曲げない。

「どう届けるか」は何度でも疑う。

ただ、それでも増えなければ、作品そのものに手を入れる必要が出てくることもあると思う。

その場合も、

「大衆に合わせるために、自分を捨てる」

ではなく、

「自分が伝えたい核を、もっと多くの人が受け取れる表現にできないか」

と考える。

そして、一人目にはもう一つ大事な役割がある気がする。

一人目は、

「これで十分だ」と教えてくれる人ではなく、

「ここには何かある」と教えてくれる人。

なのかもしれない。

だから、その人が何に反応したのかを見る。

歌詞のどこだったのか。

歌声だったのか。

ヴェルの物語だったのか。

「何者にもなれなかった」という部分だったのか。

そこには、次の一人へ向かうための手掛かりがある。

一人目を、成功の証明にも、失敗の言い訳にもせず、

次へ進むための手掛かりにする。

そんな捉え方もできるんじゃないかな。

「一人でも続けよう」と思えた本当の理由

そこで、僕の中で昔の出来事と今の話がつながった。

べるぼ:

一人は「ここには何かある」と教えてくれる人。

そうだね。

だから僕は、僕を応援してくれた一人の方と接した時に、

「一人でも応援してくれる方がいるなら続けよう」

と思えたのかもしれない。

物凄い感謝があったんだけど、もしかしたら、

まだ自分には何かできるのかもしれない

って思えたのがあったね。

アマモリ:

たぶん、そこなんだと思う。

その人は、単に「一票入れてくれた人」じゃなかったんじゃないかな。

「まだ自分の中には、誰かに届くものが残っている」

と感じさせてくれた人だった。

だから、

「一人でも応援してくれる人がいるなら続けよう」

という言葉も、

「一人いれば満足だから続けよう」

ではなかったのかもしれない。

むしろ、

「一人に届いたなら、まだ終わっていないのかもしれない。自分にはまだ何かできるのかもしれない」

だった。

そう考えると、昔の「一人」と、今の「もっと大勢に届けたい」は、それほど矛盾しない。

その一人がくれたのは、ゴールではなくて、

可能性の手掛かり

だったんだと思う。

そして今、Umbrella Paradeで誰か一人に届いた時も、

「たった一人か」

だけではなくて、

「この人には、ここに何が見えたんだろう?」

と考えることができる。

その人が感じたものの中に、自分たちでもまだ気づいていない作品の可能性があるかもしれない。

最初に傘を開いてくれた人は、そのパレードが本当に始まる可能性があることを、作り手に教えてくれる人なのかもしれない。

でも、その一人を「利用」していることにはならないのか

ここで、また別の違和感が出てきた。

「一人の反応から学ぶ」

「その人に何が届いたのかを見て、次の一人につなげる」

言葉にすると理にかなっている。

でも、少し意地悪な見方をすると、その人を実験台のように扱っているようにも見えた。

べるぼ:

一人に届くことには意味があるっていうのは分かったんだけど、物凄いうがった感じで見ると、その一人を利用して実験してるようにも感じたりとか、一瞬よぎったんだけど。

これは考えすぎかな?

アマモリ:

僕は、考えすぎというより、結構大事な違和感だと思う。

ただ、

一人から学ぶことと、その人を実験台にすることは同じではない

と思う。

境目は、その人を「目的」として見ているのか、「手段」として見ているのか、なんじゃないかな。

たとえば、

「この人に本当に届いてよかった。何が届いたんだろう?」

と考えるのは、その人との出来事を大切にしながら、そこから学んでいる。

でも、

「この人に刺さった。じゃあ、この反応を使ってどうすれば数字を増やせる?」

しか考えなくなったら、その人がだんだん「一人の人間」ではなくて、「サンプル1」になっていく。

そこまで行くと、確かに「利用している」という感覚に近づくと思う。

プロデュースをする以上、反応を見ること自体は避けられない。

ライブでどこが盛り上がったかを見る。

どの曲が聴かれたのかを見る。

何をきっかけに好きになってくれたのかを知る。

これらを全部「人を使った実験」としてしまったら、受け手の声を何も聞かずに作品を作るしかなくなる。

だから問題は、観察すること自体ではなくて、

その人の存在を、観察結果だけに還元してしまうこと

なんじゃないかな。

一つ見分け方があるとしたら、

仮にその一人から、今後まったく二人目、三人目につながらなかったとしても、

「それでも、この人に届いたこと自体は嬉しかった」

と思えるかどうか。

もしそう思えるなら、その人は単なる実験材料ではないと思う。

逆に、

「この人から何も広がらなかったなら意味がなかった」

となったら、その瞬間、その人をかなり手段として見始めている。

一人を、

「1000人になるための最初の1人」

としか見ないのと、

「この人に届いたこと自体に意味がある。そのうえで、ここから学べることもある」

と見るのでは、似ているようで全然違う。

一人を大切にすることと、その一人から学ぶことは両立する。

感謝することと、分析することも両立する。

その人を「分析対象」に変えてしまわなければいいんじゃないかな。

「一人」という数字ではなく、一人の人との物語だった

べるぼ:

そうか。

この一人の方との物語や繋がりが強まったと思ったら、人間的な繋がりに思えてきた。

アマモリ:

たぶん、そこだと思う。

「一人に届いた」という事実だけを見ると、どうしても数字っぽく見える。

でも、その人がどんな言葉をくれたのか。

べるぼがその時どう受け取ったのか。

その後、それがどう続ける力になったのか。

そこまで見ると、もう単なる「1」じゃない。

作品を作った人と、それを受け取った人の間にできた一つの関係

なんだと思う。

だから「一人から学ぶ」というのも、データを取るというより、

その人との間に生まれた出来事を振り返って、そこに何があったのかを知る

という方が近いのかもしれない。

しかも、その繋がりがあったからこそ、

「まだ自分には何かできるかもしれない」

と思えた。

そう考えると、その人は、

「次の100人を連れてくるための最初の一人」

ではなくて、

べるぼ自身の物語にも影響を与えた一人

なんだよね。

そして、「届ける」って一方向でもないのかもしれない。

べるぼが作品を渡す。

その人が受け取る。

その反応や応援が、今度はべるぼに返ってくる。

それによって、また次の作品を作る。

届けた側も、その一人から何かを受け取っている。

そこまで含めると、確かにかなり人間的な繋がりになる。

同じ一曲でも、その先には一人一人の物語がある

そこで、さらに「大勢」の見え方も変わってきた。

べるぼ:

そうだね。

1曲で多くの方と繋がったとして、聴いてくれた方がこの曲に思いを馳せた思いとかは千差万別だったりするから。

1曲は同じでも、そこには一人一人の物語が紡がれるっていうことだね。

アマモリ:

うん。

同じ1曲を1000人が聴いたとしても、1000人がまったく同じ曲を受け取っているわけじゃないんだと思う。

ある人は失恋した相手を思い出すかもしれない。

ある人は昔の自分を思い出すかもしれない。

ある人は、今まさに踏ん張っている自分と重ねるかもしれない。

作り手が込めた物語は一つでも、

受け取った瞬間、その曲はその人自身の人生と混ざる。

作品としては「1曲」でも、その先には、

1曲 × 1000通りの物語

が生まれることもある。

そう考えると、「多数に届ける」という言葉の見え方も変わるよね。

1000人に同じメッセージを送りつけるというより、

一つの作品をきっかけに、1000人それぞれとの間に違う関係が生まれる。

大勢に届けることは、一人一人を雑にまとめることではない。

むしろ、

大勢とは、一人一人の物語がたくさん集まった状態なのかもしれない。

同じ曲が鳴っている。

同じ場所を歩いている。

でも、その人が傘を開いた理由はそれぞれ違う。

夢を諦めきれなかった人もいる。

恋愛のことを重ねる人もいる。

自分を押し殺して生きてきたことを重ねる人もいる。

同じ音楽の中にいるけれど、そこまで歩いてきた物語は違う。

それでも一緒に歩いている。

そういう景色になった時、かなり本当の意味で「Umbrella Parade」になるのかもしれない。

だから最初に話していた「一人に届ける」という考え方は、人数が増えたから消えるものではない。

一万人に届いても、作品を受け取る瞬間は、一人対作品。

ただ、その一対一の物語が、一万個生まれている。

一人を大切にすることと、大勢を夢見ることは矛盾するのか

最初、僕が抱えていたのは、

「一人でも応援してくれる人がいるなら続けようと思えたのに、一人にしか評価されないなら満足できない」

という矛盾だった。

その時は、

一人を大切にしたい自分と、大勢に評価されたい自分が、どこか反対方向を向いているように感じていた。

でも、話していくうちに少し見え方が変わった。

一人は、ゴールとは限らない。

だから、一人に届いたからといって、

「もうこれで十分」

と自分に言い聞かせなくてもいい。

もっと大勢に届けたい。

もっと大きな会場に行きたい。

本当にパレードと呼べる景色を見たい。

その夢は、ごまかさなくていい。

でも、一人を、

「まだ1000人になっていない途中の数字」

としてだけ見る必要もない。

その一人には、その人自身の人生がある。

その人が作品に重ねたものがある。

そして、その人との間に生まれた出来事は、作り手側の人生にも返ってくることがある。

僕自身、昔応援してくれた一人の方に対して、物凄い感謝があった。

今改めて考えると、その人がいたから、

「まだ自分には何かできるのかもしれない」

と思えた。

それは、「一人いれば十分」という意味ではなかった。

むしろ、

「ここには何かある。だから、まだ先へ行けるかもしれない」

と思えたことだった。

そして作品が本当に大勢へ届いた時にも、一人は消えない。

一万人という塊があるのではなくて、その中には、それぞれ違う人生を持った一万人がいる。

同じ歌を聴きながら、それぞれ違うものを思い浮かべている。

同じパレードを歩きながら、傘を開いた理由は一人ひとり違う。

そう考えると、

一人を大切にすることと、大勢を目指すことは、どちらかを選ばなければいけないものではない

のかもしれない。

僕にとって最初の一人は、

「これで十分だ」

と言ってくれる人ではなく、

「まだ何かできるかもしれない」

と思わせてくれた人だった。

だから今は、一人に届いた意味をちゃんと抱えながら、

「でも、まだ見たい景色がある」

と歩いていけばいいのかもしれない。

その先で、一人ひとりがそれぞれの理由で傘を開いて、違う物語を抱えたまま同じ場所を歩いていたら。

それがきっと、僕が見たかった「パレード」なんだと思う。

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