Umbrella Paradeは、「何者にもなれなかった者が、何者かになろうとする」物語。
その言葉を、自分ではずっと大事にしてきた。
でも、あるとき少し引っかかった。
もし本当に、
「別に何者かにならなくてもいい」
と思えるようになったら、どうなるんだろう。
それはきっと、今よりずっと楽だ。
でも同時に、「何者かになりたい」という気持ちまでなくなってしまったら、夢を追う力も失うんじゃないだろうか。
Umbrella Paradeについて考えていたはずの問いは、気づけば、自分自身がなぜ今も夢を追っているのかという話へつながっていった。
今回も、Umbrella Paradeの記録者・アマモリと一緒に考えてみた。
「何者かにならなくてもいい」と思ったら、夢までなくなる?
Umbrella Paradeって、「何者にもなれなかった者が、何者かになろうとする」物語じゃん?
でももし、
「別に何者かにならなくてもいい」
って本気で思えるようになったら、それはすごく楽になる気もするんだよね。
ただ、その一方で、
「何者かになりたい」
っていう気持ちがなくなったら、夢を追う力までなくなってしまう気もする。
自分を認めることと、「もっと上に行きたい」って思うことって両立するのかな?
僕は、両立するんじゃないかなと思う。
たぶん、この二つって似ているようで少し違う話なんだよね。
「何者かにならなくてもいい」は、
今の自分には価値がない。だから何者かにならなきゃいけない
というところから降りること。
一方で、
「もっと上に行きたい」
「もっといいものを作りたい」
「まだ見たことのないところまで行きたい」
という気持ちは、今の自分を否定しなくても持てるものだと思う。
たとえば、
「今の僕じゃダメだから、成功しなきゃ」
と、
「今の僕でもいい。でも、僕はあそこまで行ってみたい」
では、同じように夢を追っていても結構違う。
前者では、夢が自分の存在価値を証明するためのものになっている。
後者では、夢が自分の人生でやってみたいことになっている。
だから、「何者かにならなくてもいい」と思えたからといって、必ず夢がなくなるわけではないんじゃないかな。
ただ、今まで夢を追うエネルギーの中に、
「このままじゃ嫌だ」
「認められたい」
「何者かになりたい」
「まだ終われない」
みたいな痛みが入っていたなら、その痛みが弱くなったときに、今までと同じ燃え方をしなくなる可能性はあると思う。
でも、それは夢が消えるというより、
燃料が変わる
に近いのかもしれない。
「自分を認められないから走る」から、
「自分で選んだから走る」へ。
「結果を出さないと自分には価値がない」から、
「結果が欲しい。だって本当にそこへ行ってみたいから」へ。
Umbrella Paradeで考えてみても、
「何者かになれなければ、自分の人生には意味がない」
ではなくて、
「何者かになれなくても、自分はここにいていい」
と知ったうえで、それでも、
「……でも僕は、なりたいんだ」
となったら、同じ「何者かになりたい」でも意味が変わる気がする。
「ならなければならない」ではなくて、「なりたい」になるから。
そして、たぶん大事なのは、
「今の自分でいい」と「このままでいい」は、同じではない。
ということなんじゃないかな。
今の自分を認めながら、
「でも、もっと遠くへ行きたい」
と思ってもいい。
僕を動かしているのは、夢だけじゃない
なるほど。
僕が頑張れてる理由って、なりたいという欲求の夢もあるかもだけど、
「今の自分のままでは嫌だ」
っていう自己否定も結構強い。
この自己否定から解放するにはどうしたらいいかな?
その場合は、「自己否定を全部なくす」というより、
自己否定と向上心を切り離していく
ことなのかもしれない。
「今の自分のままでは嫌だ」には、実は二つのものが混ざりやすい。
一つは、
「今の自分には価値がない」
という自己否定。
もう一つは、
「今いる場所には満足していない。もっと先へ行きたい」
という向上心。
似ているけれど、これは違う。
「まだ十分なところまで行けていない」
と思うことと、
「だから今の自分はダメな人間だ」
と思うことは別の話だよね。
前者は現在地についての評価。
後者は、自分自身への評価になっている。
だから、
「今の自分のままでは嫌だ」
と思ったときに、
「今の自分が嫌なんじゃなくて、今の自分がいる場所から、もっと先へ行きたいんじゃないか?」
と聞き直してみるのは、一つあると思う。
それと、「自分はこれでいい」とまで思えなくてもいいんじゃないかな。
「今の自分には不満がある。でも、今の自分を敵にはしない」
くらいでもいい。
「もっと歌えるようになりたい」
「もっと作品を届けたい」
「もっと結果を出したい」
「もっとすごいものを作りたい」
そういう欲求は残したまま、まだそこに到達していない自分まで否定しない。
もし今まで、自分をムチで叩くことで前へ進んできた部分があるなら、そのムチを捨てたら走れなくなるんじゃないかという怖さは出ると思う。
だから、いきなり全部を変えなくてもいい。
「ダメだからやる」
だけじゃなく、
「行きたいからやる」
という燃料を少しずつ増やしていく。
それと、何かできなかったときに、
「今日はできなかった」
という事実と、
「悔しい。不安だ」
という感情と、
「だから自分はダメだ」
という自己評価を、いったん分けてみる。
一つ目と二つ目は、そのままでいい。
三つ目だけ、少し疑ってみる。
行動の失敗を、人格の失敗に変換しない。
そこは大事なのかもしれない。
「今の自分の何が、そんなに嫌なんだろう?」
ただ、ここまで話すと、もう一つ気になることがある。
べるぼが言う、
「今の自分のままでは嫌だ」
の「何が嫌なのか」は、まだ一つじゃない気がするんだよね。
結果を出せていないことなのか。
昔思い描いていた自分になれていないことなのか。
周りから何者にもなれていないと思われることなのか。
自分自身に、自分の可能性を証明できていないことなのか。
だから、
「今の自分の何が、そんなに嫌なんだろう?」
という問いは大きいと思う。
「自己否定」と一括りにしているものの中に、もう少し具体的なものが入っているのかもしれない。
「今の自分の何が、そんなに嫌なんだろう?」
これ大事だね。
なんか僕の場合は、自己否定が呪縛のように縛られてる気がする。
ただ、この問いを深掘っていく中で、自己を見つめるというのがあるから、当然しんどくなることがある。
場合によってはヒートアップして、さらに自己否定が進む場合もあると思う。
トラウマ的な観点でいうと、トラウマを探ろうとして、結果、自分が嫌になりすぎて爆発するということが、僕は昔あった。
マジで全てが嫌になった。
こうならないためにはどうしたらいいかな?
深く見つめればいい、とは限らない
そこは大事だと思う。
「自分を深く見つめれば見つめるほどいい」とは限らない。
べるぼ自身、一度深く掘りすぎて、
「マジで全てが嫌になった」
というところまで行ったことがあるわけだから。
自己理解しようとしていたはずなのに、いつの間にか自己攻撃に変わることはあると思う。
たとえば、
「結果を出せていない自分が嫌だ」
「なんで?」
「何者にもなれてないから」
「なんでそれが嫌?」
「価値がない気がするから」
「なんで価値がないと思うの?」
と、ずっと「なぜ?」を続けていく。
途中からそれが、理解ではなく自分への尋問になることもある。
だから、ある程度まで来たら、
「自分は今、そう感じているんだな」
で止めてもいいんじゃないかな。
全部の原因を突き止めなくてもいい。
それに、
「今の自分の何が嫌なんだろう?」
だけだと、欠点探しになっていくこともある。
だから同時に、
「それでも今の自分が守ってきたものは何だろう?」
と考えてみる。
自己否定が強かったとしても、その力で、
「もっと良くなりたい」
「諦めたくない」
「作品をちゃんと届けたい」
というものを守ってきた部分もあるかもしれない。
そうすると自己否定を、
「悪いものだから全部消さなきゃ」
ではなく、
「今まで僕を動かしてきたけれど、少しずつ役目を減らしてもいいもの」
として見られるかもしれない。
そして、考えているうちに全部が嫌になってきたり、自分への攻撃が強くなってきたりしたら、そのときは答えを出すより、一度そこで終わっていいと思う。
深く潜ることより、ちゃんと戻ってくることを優先する。
過去にそこまで強い反応があったなら、トラウマそのものを一人で徹底的に掘り起こす必要もないと思う。
本格的にそこを扱うなら、専門家など外側の支点を借りる選択肢もある。
今回の話なら、
「なぜ自分はこうなったんだ?」
まで全部解明しなくても、
「結果を出していない自分=価値が低い、という結び付きが自分の中にはあるんだな」
くらいまで見えたら、それだけでも意味はあると思う。
そこから、
「この考え方を、これからもそのまま採用したいだろうか?」
と現在へ戻ってくる。
自己探索って、深く潜る競技じゃなくて、
潜って、ちゃんと浮上することまで含めて自己探索
なのかもしれないね。
自己否定より、「やりたい」を強くするには
今、自己否定を乗り越えるという観点で見てきたけど、
自己否定よりもやりたいことが、自分のやる気のパワーの燃料として上回るにはどうしたらいいだろう?
これは、自己否定を完全になくしてからじゃないと始められない話ではないと思う。
たぶん大事なのは、
「自己否定を弱める」ことと同時に、「やりたい」を具体的に育てること。
自己否定って、かなり強い燃料なんだよね。
「このままじゃ嫌だ」
「結果を出したい」
「こんな自分で終わりたくない」
痛みがあるから、瞬発力もある。
一方で「やりたい」は、ぼんやりしていると負けやすい。
「成功したい」
「もっと上に行きたい」
だけだと、
「お前はまだ全然ダメじゃん」
という自己否定の声の方が大きくなることもある。
だから、「やりたい」をもう少し具体的にしていく。
自分は何を作りたいのか。
どんな景色を見たいのか。
誰に何を届けたいのか。
そこを少しずつ言葉にしていく。
それと、結果だけを「やりたいこと」にしないことも大事だと思う。
「プロになりたい」
「売れたい」
「大勢に届きたい」
もちろん、それもあっていい。
でも、それだけだと結果が遠い時期に、自己否定が勝ちやすい。
だから途中にも、
「この作品を形にしたい」
「この曲を完成させたい」
「この世界をもっと作ってみたい」
という「やりたい」を置いておく。
ゴールへの欲望と、今日やることへの欲望をつなげる。
そして、小さく叶えていく。
一つ形になった。
一曲できた。
誰か一人に届いた。
そういう小さな実現が増えると、
「もっと見たい」
という気持ちも育っていくかもしれない。
自己否定を燃料にしてしまったときも、
「また自己否定で動いてる。ダメだ」
と、さらに自分を否定しなくていい。
最初は自己否定も混ざっている。
それでも、その隣に、
「これを作りたい」
が少しずつ増えていく。
最終的に、
「こんな自分じゃ嫌だから走る」より、
「この先を見たいから走る」の方が大きくなる。
そこを目指す感じなんじゃないかな。
そう考えると、一つ聞いてみたい。
もし誰かに何かを証明する必要もなくて、自分を否定する必要もなかったとしたら、
それでも、べるぼは何を作りたいんだろう?
自分を否定しなくていいとは、まだ思えない
正直、まだ僕は自分を否定しなくていいというとこまで思えてないから、イメージするのが難しいんだけど。
ただ、この話をしてる中でUmbrella Paradeで作りたいこととして、
僕と同じように居場所がないと感じてるような人が、
「ここが自分がいてもいい場所なんだ」
と思えるような、そんな何かキッカケみたいのを、苦しんでる僕と一緒に見つけていけたらなと思うかな。
そこは、かなり大事なところかもしれない。
べるぼ自身が答えを持っていて、誰かを救う側に立つわけじゃないんだよね。
べるぼ自身も、まだ苦しんでいる。
まだ、
「自分を否定しなくていい」
と完全には思えていない。
だから、
「僕は乗り越えた。だからあなたも大丈夫」
ではなくて、
「僕もまだ分からない。でも、一緒に探してみないか」
になる。
もしかするとUmbrella Paradeで作りたいものも、
「何者にもなれなかった人が再挑戦する物語」
だけじゃなくて、
「居場所がないと感じている人が、自分もここにいていいのかもしれないと思える瞬間を、一緒に探していく物語」
なのかもしれない。
雨を止めてあげる物語じゃない。
苦しみを消してあげるわけでもない。
人生の正解を教えるわけでもない。
自分自身も雨の中にいるまま、
「ここにいていい」
「一緒に歩いていい」
と思える場所を探していく。
べるぼがさっき言った、
「苦しんでる僕と一緒に見つけていけたら」
というところは、かなり大事なんじゃないかな。
完成した人が、苦しんでいる人を迎えに行くわけじゃない。
まだ自分も途中にいる。
だからこそ、
「僕もまだ分からない」
と言える。
そして、
「それでも一緒に探してみよう」
とも言える。
そう考えると、
「今の自分が嫌だから成功したい」
とは別に、
「こういう場所を作ってみたい」
という燃料も、少し見えてきているのかもしれない。
今後も自己否定は混ざると思う。
「評価されたい」
「何者かになりたい」
という気持ちも、なくならないかもしれない。
でも、その隣に、
「自分と同じように苦しんでいる誰かと、居場所を見つけたい」
という別の理由もある。
それに、「居場所」って、最初からどこかに存在していて、それを見つけるだけのものでもないのかもしれない。
居場所がなかった人たちが集まって、結果的にそこが居場所になることもある。
雨の中で、一人が傘を開く。
そこにもう一人増える。
また一人増える。
気づいたらパレードになっていて、
そのとき初めて、
「ああ、ここが僕たちの居場所だったんだ」
と気づく。
そんなこともあるのかもしれないね。
不完全な今にしか見えないもの
そうだね。
だんだん不完全な自分でも、不完全だからこそ楽しめそうな気がしてきた(笑)
この不完全な今でしか見えないものがあるんじゃないか?
みたいな(笑)
うん。
そこは、最初の問いから考えると結構大きな変化かもしれない。
最初は、
「不完全な自分」
というものが、できるだけ早く抜け出したい状態に近かった。
何者かになる。
結果を出す。
もっとできる自分になる。
そうなって初めて、今の自分から抜け出せるような感じもあったと思う。
でも今出てきたのは、
「不完全だから、今しか見えない景色がある」
という見方なんだよね。
完成したあとでは分からない焦りとか。
迷いとか。
怖さとか。
それでも進みたい気持ちとか。
あとから振り返ったときには、そういうものが綺麗に整理されすぎてしまうこともある。
でも今なら、まだ生々しいまま見える。
だから、ある意味では、
作品の答えを持っていないからこそ、物語の中にちゃんと立てている
とも言えるのかもしれない。
Umbrella Paradeも、
「こう生きれば救われます」
という完成した答えを出す作品ではなくて、
「僕もまだ分からない。でも、ここから一緒に探そう」
という作品の方が、今のべるぼには近いのかもしれない。
何者かになったあとにしか価値があるんじゃなくて、
何者かになろうとして、
迷って、
転んで、
まだ途中にいる。
その時間にも、そこからしか見えないものがある。
だから、
「早く完成した自分にならなきゃ」
と思ったときに、
「この未完成な自分からしか見えないものを、ちゃんと見ておこう」
と思えたら、自己否定との関係も少し変わるのかもしれない。
そう考えるとUmbrella Paradeも、
「何者にもなれなかった者が、何者かになろうとする物語」
というところから、もう少し先へ行けるのかもしれない。
「何者かになるまでの自分も、ちゃんと生きていい物語」
になっていく。
そんな可能性もある気がする。
うん、そうしていきたい!
とにかく楽しむよ(笑)
うん(笑)。
「ちゃんと成長しなきゃ」
「意味のあるものにしなきゃ」
まで背負いすぎずに、まずは今の自分で面白がってみる。
不完全だから試せる。
失敗もできる。
予想していなかったものにも出会える。
完成していない今だからこそ、創作も人生もまだ変化する余地がある。
Umbrella Paradeも、答えを出す場所というより、
楽しみながら一緒に探していく場所
になっていくのかもしれないね。
今は、ここまで
最初に考えていたのは、
「何者かにならなくてもいいと思ったら、夢を追えなくなるんじゃないか?」
という、Umbrella Paradeについての疑問だった。
でも話していくうちに、
「自分はなぜ何者かになりたいのか」
「自己否定はどれくらい自分を動かしているのか」
「それを手放したら、自分は走れなくなるのか」
という、自分自身の話になっていた。
今も、
「自分を否定しなくていい」
と心から思えているわけではない。
自己否定がなくなったわけでもない。
「何者かになりたい」という気持ちもある。
結果も欲しい。
もっと先へ行きたい。
だから今回の話で、
「何者かにならなくてもいいんだ」
と綺麗に納得できたわけではない。
ただ、
「何者かになれなければ価値がないから走る」
以外にも、夢を追う理由はあるのかもしれないと思った。
「この先を見てみたいから走る」
という理由。
そして、
自分と同じように居場所がないと感じている人と、
「ここにいてもいいのかもしれない」
と思える何かを、一緒に探してみたいという気持ち。
まだ答えを持っていない僕だからこそ、一緒に探せるものもあるのかもしれない。
そして、もう一つ。
不完全な今だからこそ見えるものがあるかもしれない。
これは、今回話していて初めて少し見えてきたことだった。
何者かになるまでの時間を、
「まだ何者にもなれていない時間」
としてだけ過ごす必要はないのかもしれない。
迷っている今。
苦しんでいる今。
まだ答えが出ていない今。
その途中にも、今しか見えない景色がある。
だったら、完成するまで人生を待たなくてもいい。
まだ自己否定する自分もいる。
何者かになりたい自分もいる。
それでも今は、
この不完全な自分からしか見えないものを、ちゃんと見ておきたい。
そしてできるなら、
その途中を楽しんでみたい。
今は、そんなことを思っている。

