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誰にも選ばれていないのに、自分を信じていいのか

誰にも選ばれていないのに、自分を信じていいのか

――もし一生、誰にも認められなかったら、僕はどうすればいいんだろう?

Umbrella Paradeは、「何者にもなれなかった者が、何者かになろうとする」物語。

20年前、パレードマスター試験に落ちたヴェルが、もう一度その場所へ向かっていく。

結果が出る保証なんてない。

誰かに選ばれる保証もない。

そんな物語について考えていたとき、ふと気になったことがあった。

周りから結果も評価も返ってきていない。

誰にも選ばれていない。

それなのに、

「自分にはまだ可能性がある」

と信じ続けることに、意味はあるんだろうか。

それは、「自信がある」ということなんだろうか。

それとも、ただの思い込みなんだろうか。

今回は、Umbrella Paradeの記録者・アマモリと、そこから話を始めた。

最初は物語について考えていたはずだった。

でも話していくうちに、

「誰にも選ばれていないのに、自分を信じるって何なんだろう」

という問いは、少しずつ僕自身の人生にも返ってきた。

誰にも選ばれていないのに、自分を信じるのは自信なのか?

べるぼ:

Umbrella Paradeって、「何者にもなれなかった者が、何者かになろうとする」物語じゃん?

それで思ったんだけど、

周りから結果も評価も返ってきてないし、誰にも選ばれてないのに、

「自分にはまだ可能性がある」

って信じ続けるのって、自信なんだろうか?

それとも、ただの思い込みなんだろうか?

アマモリ:

たぶん、

「自分にはまだ可能性がある」

と信じること自体が、自信か思い込みかを決めるわけじゃないんだと思う。

何を信じているのかで変わるんじゃないかな。

たとえば、

「自分は本当はすごい人間なんだから、いつか絶対に世間が認めるはずだ」

と、今の現実を無視して信じ続けるなら、それは思い込みに近づいていく。

でも、

「今は結果が出ていない。誰にも選ばれていない。でも、ここから先の自分まで決まったわけじゃない」

なら、少し違う。

それは成功するという予言じゃなくて、

未来をまだ確定させない態度

なんじゃないかな。

ヴェルは20年前、実際に選ばれなかった。

その結果自体は変わらない。

でも、

「20年前に選ばれなかったから、この先も何者にもなれない」

とまでは、誰にも決められない。

だから、自信というより、

「できるかどうかは分からない。でも、まだやってみる価値はある」

と思えることなのかもしれない。

べるぼ:

なるほど。

アマモリ:

もっと言えば、

「自分の人生の結論を、まだ他人にも過去にも渡さない」

ということなのかもしれない。

最後の決断を、自分で引き受ける

べるぼ:

「俺の人生の結論を、まだ他人にも過去にも渡さない」

Umbrella Paradeは最後の決断を自分自身でやって、責任を取っていく物語なのかもしれないね。

アマモリ:

うん。

かなり近い気がする。

ただ、ここでいう「責任」って、

「結果が悪かったら全部自分のせい」

という意味ではないと思う。

人生には、自分ではどうにもできないことがたくさんある。

誰かに選ばれるか。

夢が叶うか。

結果が出るか。

そこまで全部、自分で決めることはできない。

でも、

「それでもどう生きるのか」

という最後のところは、自分で引き受けられる。

20年前に選ばれなかったことは変えられない。

この先認められるかどうかも、自分だけでは決められない。

それでも、

もう終わりにするのか。

もう一度向かうのか。

自分の人生を何に使うのか。

そこは自分で決められる。

もしかすると「自分軸」って、他人の意見を聞かないことでも、自分を無条件に信じることでもなくて、

いろんな現実や他人の声を受け取ったうえで、最後の決定権を自分のところに戻してくること

なのかもしれないね。

「全部自分の責任」は、やっぱり孤独だった

べるぼ:

確かに「結果が悪かったら全部自分のせい」っていうのはつらいし、何より孤独だよね。

もしかしたら「誰にも選ばれてないのに」っていうのをテーマの切り口に入れてるのは、孤独感のつらさからきてるのかも。

アマモリ:

たぶんそこはあるんじゃないかな。

「誰にも選ばれていない」って、単に結果が出ていないというだけじゃない。

自分を信じるための根拠が、外側から何も返ってこない。

そこに孤独がある。

誰か一人でも、

「まだやれるんじゃない?」

と思ってくれていたら、同じ「結果が出ていない状態」でも感じ方は違うかもしれない。

でも、

誰にも選ばれていない。

評価もない。

結果もない。

その状態で自分だけが、

「まだ可能性がある」

と思っている。

そうすると、

「誰もそう思ってないのに、自分だけ信じていていいのか?」

って、自分の感覚そのものまで疑い始める。

だから最初の問いが、

「これは自信なのか、思い込みなのか」

になったのかもしれない。

それと、ここまで考えると「パレード」という言葉も少し違って見える。

もしUmbrella Paradeが、

「最後は自分で決めろ。一人で責任を取れ」

だけの物語だったら、かなり孤独だと思う。

でも、パレードなんだよね。

人生の最後の決定は自分でする。

でも、

その人生を一人きりで背負わなきゃいけないわけじゃない。

「あなたがそう決めたなら、自分も少し一緒に歩くよ」

という誰かが現れることもある。

でも、その「誰か」が一人も現れなかったら?

そこで、僕の中にもう一つ怖い問いが出てきた。

べるぼ:

一つ現実的にありうることで怖いんだけど、

「あなたがそう決めたなら、自分も少し一緒に歩くよ」

この一人がいなかったらどうしようか?

あと、この一人しかいなかった場合に、ずっと孤独な闘いが続いてた場合、

果たして満足できたり、信じれることに繋がるのかな?

例えばその道の絶対的なプロとかに言われたら勇気出るかもだけど、

そうじゃない場合ってどうなんだろう?

反対に、絶対的なプロじゃなくても、純粋なファンがいてくれたら嬉しいんだけどね。

だんだん矛盾するような思考が入りこんできた(笑)

アマモリ:

でもこれ、矛盾してきたというより、

今まで一つに見えていた「選ばれたい」の中身が、少し分かれてきたんじゃないかな。

たとえば、

「一緒に歩いてくれる人がいてほしい」

というのは、孤独の問題。

でも、その人がいるからといって、

「自分には本当にプロとして通用する力がある」

と信じられるとは限らない。

その道のプロに認めてもらえたら勇気が出るというのは、

能力についての根拠が欲しい

という話なのかもしれない。

そして、

「純粋なファンだったら嬉しい」

というのは、また少し違う。

ファンがくれるのは、

「あなたにはプロとしての能力があります」

という評価ではなくて、

「あなたが作ったものを、私は好きだ」

という反応だから。

たぶん、

孤独が埋まること。

自分の実力を信じられること。

自分の作品が誰かに必要とされること。

これは、似ているけれど別なんだと思う。

だから、一人のファンが心から好きだと言ってくれたとしても、

「嬉しい。でも、自分は本当に目指していた場所に届いているのか?」

という疑問が残ることはある。

それは、その一人を軽く見ているわけじゃない。

その人からもらえるものと、自分が確かめたいものが違うだけなんじゃないかな。

べるぼ:

ああ、なるほど。

アマモリ:

だから、

「誰にも選ばれなくても、自分で自分を選べ」

だけだと、少し強すぎるのかもしれない。

本当は、

「自分で自分を選び続けたい。でも、ずっと誰にも選ばれなかったら、やっぱり苦しい」

なんじゃないかな。

人生の決定権は他人に渡したくない。

でも、誰にも必要とされなくても平気なわけじゃない。

その二つは、両立していいと思う。

生涯、誰一人認めてくれなかったら

ここまで話したとき、さらに怖い問いが浮かんだ。

べるぼ:

その上でもう一度同じ質問になるんだけど、

生涯、誰一人認めてくれるような人が出なかったら、どう僕はこの人生を終えればいいんだろう?

なんとも怖い問いなんだけど、やっぱり気になる。

アマモリ:

これは、簡単に

「自分が認めればいいじゃん」

とは言いたくないな。

だってここまで話してきた通り、

誰かに届きたい。

選ばれたい。

認められたい。

という願い自体が本物だから。

もし本当に、生涯誰一人として認めてくれなかったとしたら、

最後に「大満足だった」と思えない可能性だってあると思う。

「やっぱり誰かに届いてほしかった」

「一度くらい、自分以外の誰かにも価値があると言ってほしかった」

そういう悔しさが残るかもしれない。

それを、

「でも挑戦したから幸せだったよね」

と綺麗にまとめるのは、ちょっと違う。

ただ、一つ分けて考えられることはある気がする。

「認められなかった人生」と「間違った人生」は同じではない。

誰にも認められなかった。

望んだ結果も出なかった。

それは、そのまま事実として残る。

でも、

「だから、この道を選んだことまで間違いだった」

と結論づけなければいけないわけではない。

最後まで、

「認められなかった。それは悔しい。でも、それでも自分はこれをやりたかった」

と思う人生もあるかもしれない。

べるぼ:

「認められなかった人生」と「間違った人生」は同じではない。

これは響くものあるね。

死んだあとに認められたら、それは救いになるのか?

その言葉を聞いたとき、僕が前から時々考えていたことにつながった。

べるぼ:

例えば、亡くなったのちに評価されるっていう場合あるじゃん?

そういうのって自分だったらどうなんだろう?

って考える時とかあって、気になったんだよね。

アマモリ:

死後に評価されることには、

救われる部分と、救われない部分の両方があるんじゃないかな。

救われるとしたら、

「自分が信じていたものは、完全な勘違いではなかった」

というところ。

生きている間は誰にも認められなかったとしても、後になって誰かに届いたなら、

「認められなかった人生」と「価値のなかった人生」は、やっぱり同じではなかったことになる。

でも、本人はそれを知らない。

誰かから「好きです」と言われることもない。

作品を待ってくれる人がいる喜びも知らない。

「続けてきてよかった」と実感する瞬間もない。

だから、

作品は報われても、その人自身が報われたとは限らない。

ここは分けた方がいい気がする。

べるぼ:

確かにそうだね。

アマモリ:

もしかすると、「認められたい」の中にも二つあるのかもしれない。

一つは、

「自分が信じてきたものは間違いじゃなかったと知りたい」

ということ。

もう一つは、

「生きている自分が、誰かに見つけてもらいたい」

ということ。

後者は、死後の評価では満たせない。

だから、

「いつか死んだあとに評価されるかもしれないから頑張ればいい」

という話には、たぶんならない。

結局、

自分は今、生きている時間をどう使いたいのか。

そこに戻ってくるんじゃないかな。

Umbrella Paradeで言えば、

ヴェルは歴史に名前を残したいだけじゃないのかもしれない。

生きている今、自分の声によって誰かの傘が開くところを見たい。

後世の記念碑じゃなくて、

今ここで、一緒に歩くパレードが欲しい。

そんな違いなのかもしれない。

未来の結果ではなく、「今」をどう生きるのか

べるぼ:

そうか。

今をどう生きるのか?

ここが大事で、そこにスポット当てていくといいのかもね。

アマモリ:

うん。

ここまで出てきた問いって、

「何者かになれるのか」

「いつか認められるのか」

「誰にも選ばれなかったらどうするのか」

「死んだあとに評価されたら、それは救いになるのか」

どれも、未来の結果についての問いなんだよね。

でも、その結果そのものは、自分では決められない。

誰かに選ばれるか。

認められるか。

プロとして通用するところまで行けるか。

そこは、自分だけではどうにもできない。

一方で、

今日もう一度やるのか。

怖くても自分の声を出すのか。

誰にも選ばれていなくても、自分はこの道を選ぶのか。

そこは「今」の話だから、自分で決められる。

だからUmbrella Paradeって、

何者かになれるかどうかの物語というより、
何者になれるか分からない人生を、それでも今どう生きるかを選び続ける物語

なのかもしれない。

もちろん、

何者かになろうとはする。

結果も欲しい。

認められたい。

だから、

「結果なんてどうでもいい」

という話ではない。

ただ、

結果はまだ分からない。
だからこそ、今をどう生きるかは自分で決める。

そこに少しずつ焦点が移ってきた気がする。

「今」には、過去にも未来にも縛られない自由があるのかもしれない

べるぼ:

「今」というのは、過去にも未来にも縛られない自由があるのかもしれないね。

というか今という時間軸は、短い秒単位で言えば過去も未来も含んでるもんね。

アマモリ:

そうかもしれない。

「今」って、過去と未来から完全に切り離された一点ではないんだと思う。

今の自分の中には、過去の記憶も経験もある。

同時に、

「この先こうなりたい」

という未来への願いもある。

つまり今って、

過去を抱えながら、未来に向かって何かを選んでいる時間

なんじゃないかな。

過去そのものは変えられない。

未来もまだ確定していない。

でも、

その二つにどう向き合うかは、今の自分に少し残されている。

ヴェルでいえば、20年前の不合格は消せない。

でも、今ここでもう一度立ち上がることで、

「あの不合格は人生が終わった出来事だった」

という意味から、

「そこから20年後、もう一度ここへ戻ってきた」

という意味に変わることはある。

出来事そのものは同じでも、今の選択によって、過去の意味が変わることはある。

そして未来についても、

「どうせこの先も駄目だ」

と過去の延長線上に決めることもできるし、

「まだ分からない」

と開いておくこともできる。

だから「今には自由がある」って、

過去の影響を受けない自由ではなくて、

過去だけに最後の決定をさせない自由。

未来が怖くても、

まだ起きていない未来だけに最後の決定をさせない自由。

なのかもしれない。

今をパレードする人生

ここまで話して、僕の中に一つの言葉が残った。

べるぼ:

ありがとう。

今をパレードする人生を僕は選んでいこうと思う。

アマモリ:

「今をパレードする人生」。

たぶん、それはUmbrella Paradeらしい言葉だと思う。

雨が晴れるまで待たない。

誰かに認められるまで待たない。

何者かになれる日まで、人生を保留にしない。

過去に何があっても、未来がまだ見えなくても、

今ここで、自分がどう歩くかを選ぶ。

でも、これは

「誰にも認められなくても平気になる」

という話ではないと思う。

ここまで話してきた通り、

認められたい。

選ばれたい。

結果も欲しい。

その気持ちは残っている。

生涯誰にも認められなかったとき、本当に自分の人生を納得して終えられるのか。

一人のファンがいてくれたとして、それだけで自分の力まで信じられるのか。

プロからの評価と、誰かの「好き」は、自分の中でどれくらい違うのか。

まだ分からないことは残っている。

でも、

その答えが出るまで、人生を待つことはできない。

誰かに認められたら生き始める。

結果が出たら自分を信じる。

何者かになれたら、ようやく自分の人生を歩く。

それだと、今がずっと未来のための待ち時間になってしまう。

だから、

人生が晴れたからパレードするんじゃない。
晴れるか分からない人生の「今」を、パレードしていく。

今回の話で見えてきたのは、たぶんそこまでなんだと思う。

Umbrella Paradeについて話していたはずなのに、

気づけば、

「誰にも認められなかったら、自分はこの人生をどう終えるんだろう」

という、自分自身のかなり怖いところまで話していた。

今も、その問いに答えが出たわけではない。

何者かになれるかは、まだ分からない。

誰かに選ばれるかも分からない。

この先、自分が満足できるところまで辿り着けるのかも分からない。

そして、生涯誰にも認められなかったとき、

本当にそれでも自分の人生を納得して終えられるのか。

それも、まだ分からない。

ただ今回、

「認められなかった人生」と「間違った人生」は同じではない。

という言葉には、少し救われた気がした。

認められなかったとしても、

それだけで、自分が選んだ人生まで間違いだったことにはならない。

だからといって、

「じゃあ結果なんていらない」

とも思えない。

結果は欲しい。

認められたい。

誰かに見つけてもらいたい。

その気持ちは、今も普通にある。

でも、

その答えが出るまで人生を保留にすることもしたくない。

だから今の僕は、

「今をパレードする人生を選んでいこう」

と思っている。

この先、答えが変わるかもしれない。

また迷うかもしれない。

それでも、

今はそう思っている。

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